Teppei Ono
小野哲平インタビュー
I 子供の頃
子供の頃から我が強くて、感情的で、扱いにくい子供だったと思いますよ。父親は病院の放射線技師だったけど、若い頃から絵を描いてきて、50歳くらいから色々なことをやりだしたのかな。器用な人で、木のものに漆を塗ったりとか、色々なことをやって、自分の作品としていた。そういう父がいたことと、母も、自分ではものを作ったりしなかったけど、そういうものに興味があった人で。僕は、父と違って美術が得意だったわけでもないし、好きでもなかった。どうして陶芸を始めたのかって、よく聞かれるんだけど、中学高校の頃、学校教育の中で強く締め付けられるというか、理由も分からずに管理されることへの反発する気持ちがすごく強くて、どうやったらそこから抜け出し、自由に生きていけるかを考えていた。家に父が好きだった備前焼の焼き物があって、その素朴な土の焼き物に触れたとき、自分が失っているものというか、無いものを補うことができたっていう感じがあったんです。それで土でものを作って生きていこうと思うようになった。まあでも、全部自分で選んだみたいなことを言ってますけど、やっぱり両親は面倒臭い俺を上手にこの道に進めてくれたんですよね。僕が高校くらいの時、一度父親に「卒業したら普通の仕事を選んで普通に生きたい」みたいなことを言ったことがあって。どうしてそういうことを言ったのかよく覚えてないけど、そしたら父親は「それはつまらんよ。」って。父は自分が美術の仕事で生活を成り立たせたかったっていう気持ちがあったからそう言ったんでしょうね。
II 鯉江良二さんのこと
良二さんのところにいく前、備前焼の作家と、そのあと少し沖縄の作家のところにいた時があって。ようやく土を触って、焼くことができたんだけど、何ひとつワクワクするものを感じなかった。共感できる人やことに出会えなかった。権力だったり、成功だったり、お金だったり。俺はこういうのは絶対違うと思っていた。自分が行きたいところはこういう人でも、こういうことでもない。絶対に違うと。だからそれがわかったら、見つけないといけない。そうでないものを。自分は何のために生きるのかということを見つけないと。そして芸術に自分の生きる理由を見出そうと強く求めた時に、鯉江良二が現れた。
最初に良二さんのことを知ったのは、30年ほど前、沖縄の作家のもとにいた頃。たまたま美術手帖を見てたら、現代陶芸の特集で彫刻的な陶芸の仕事をしている作家が何人か紹介されてて、そこに良二さんが出ていた。写真もあったけど、言葉が強烈で。分かりやすいんですよ。何のために表現するかということが明確だった。広島長崎のことがテーマの作品だったり、「土に還る」の作品だったり。何のために表現しているのかが20歳そこそこの僕には分かりやすかったし、芸術ってそういうことだって思ったんです。なので土を焼く仕事でも、自分が探していたのは、こういう人に違いないと思って。その時は良二さんがうつわも作っているということすら知らなかったんだけど、この人を近くで見てみたいと思った。
良二さんのところでは、始まる時間も終わる時間も決まってなかった。良二さんが仕事場に入ったら、自分も行って、ろくろを回すときは土練って、窯づめするときは手伝って。良二さんが仕事してない時間は自由だったので自分のものを作っていた。興奮して、土で形を作って、焼いて・・・自分の中の感情を放出できた感覚があった。毎日が刺激的だった。
良二さんは、朝以外はたいてい酔っ払っていた。思ったことをはっきりと口にする人だったので、僕が何か社会的なことを感じて口にすると「なんでお前はそれに対して行動しないんだ。」って。お前はどうなんだっていうことを常に突きつけられているというか。僕が生意気なことを言っても、じゃあお前は何ができるんだ。俺はこうやってやっているぞと。そういうのが毎日。そうやって精神的に追い込まれると暴れるしかないじゃないですか。だから良二さんとは毎日喧嘩で。一方的に暴力を振るわれたことはなかったけど、取っ組み合いの喧嘩はしましたよ。耳を噛まれたり。でもね、なかなかそんなバカなことできないよ。よっぽどの愛情とエネルギーがないと。俺はあの子たち(お弟子さんたち)の耳噛めないもん。でも良二さんとは自分が大事だと思ってることで繋がってる感じがあったというか、信頼があったので、何度も「出て行け」って言われたけど、「いえ、帰りません」と。良二さんのところには3年いました。
僕がいた頃、良二さんは45歳くらいだったのかな。毎日毎日新しいことが自分の中に閃いて、それを試していた時期で、僕はその頃が良二さんが一番いい仕事をしていた時期だと思ってる。ただ残念に思うのは、僕らの世代でも、若い子たちも、鯉江良二が何をしてきたのか、僕らやその後の世代をどれだけ自由にしてきたのか全く知らないんだよね。俺は良二さんを近くで見てたので、その当時の権威主義的な状況を、良二さんがどのように壊していったかということをもっと知ってもらいたいし、一番いい時期の彼の作品を見てもらいたいという気持ちがある。そういうのがあったから俺たちは好き勝手できて、自由なんだよということを、ギャラリーの人も作家も知らないのが残念なので、僕は機会がある時には良二さんの作品集を見せて話をしたりしてるんです。でもね、作品集に載っている良二さんの言葉だったり、作品は、見たこともないような、刺激的なものが多くて、そういう作品ばかり注目されがちなんだけど、良二さんはそういうものだけではなくて、普段すっと手がいくような、なんでもないうつわだったり、湯呑みだったりを作ることができるんだよね。それが俺は良二さんの本当のところじゃないかなと思う。良二さんのところでの3年間がなかったら、月並みな言い方だけど、今の自分はないでしょうね。でも、それは人から与えられたものじゃなくて、自分でそれを見つけ出して、自分で鯉江良二を見つけ出して、自分で行くことを選んだんです。自分が求めていなかったら鯉江良二は来なかったと思う。良二さんの言葉で今でも一番心に残っているのは、「ろくろはレコーディングだ。」「感情の記録である。」という言葉。それを僕は今でもとても大事にしています。
III アジア、常滑
独立してからすぐユミと一緒になって、象平が生まれました。僕もユミも何か他の仕事をして自分の時間を奪われるのが絶対嫌だったので、アルバイトとかはしなかった。自分らしいものはまだまだ全然作れてなかったけど、とにかく自分の作ったもので生活をしていかなきゃと思っていた。それでとても悔しい思いもいっぱいしたんだけど、生活をたてて行くことにはそんなに心配はなかった。まあ飢え死にすることはないだろうと思って。なんとか、三人でやっていけるだろうと思っていました。ユミは暮らしが大切っていうことを昔からよく言っていて、自分たちの暮らしを作ろうと。まあ、その辺は僕がユミの影響を受けたんでしょうね。ユミと一緒になるまでは、そんなに暮らしが暮らしがという風には思っていなかったと思うし、家のこととかをやるような人間ではなかったと思う。二人とも自分のやりたいことに貪欲だったので、子供が生まれてから、家の中のことをどちらがするかでよく喧嘩になりました。そうやって何度も喧嘩をして話し合って、だんだん今ある形に収まっていった。だから今でも朝起きたら洗濯をして、夕方とり込むのは僕の仕事です。
象平が一歳半になった時、象平も連れてタイに行きました。それからは、仕事をしながら、アジアと常滑を行ったり来たりする生活でした。最初タイに行ったのは、ユミがタイのカラワン楽団というバンドの人たちを知っていたことから。70年代にタイでクーデターがあって、学生や人々の抵抗運動があったんだけど、政府の暴力から逃がれて、ジャングルに隠れながら抵抗運動をしていた芸術家たちが「生きるための芸術運動」というのをしていて、カラワン楽団はその運動に関わっていたんです。その話を僕はユミから聞かされて、タイにはそういう厳しい状況でも、自由のために闘っている人たち、表現する理由が明確な人たちがいるということを知って、会いたいと思った。それで、向こうに行って、そういう人たちと付き合いながら、作品を作っていた。その中にワサン・シティケットっていう人がいて。彼は僕らと世代的にすごく近いんだけど、絵も描くし、歌も歌うし、メッセージの強い社会批判みたいなテーマで表現をしている人でした。それにすごく感動して、彼を呼んで彼の展覧会を日本でやったりしていました。そのうち二人目の子供、鯛が生まれたけど、常滑を日本の拠点としながらも、なるべく家族でアジアで生活しながら旅をして、日本では稼ぐだけ稼いで、また向こうに戻ってという生活だった。アジアには、日本人が無くしてしまった大事なものがある気がします。
その頃から、今でもそうですけど、ずっと考えてきたことは、もっと自分たちの暮らしだったり、日常に近いところで仕事をしたいということ。オブジェ的なものだったり、良二さんだったら、もっと尖った使えないような器も作っていたけど、そういうことではなく、もっとこう、自分たちで、自分に近いところの表現をしたいと。決して権威的なものではなく、日々の生活のためのうつわ。だけどまあ、その頃は今とは違ってもっと毒っぽいというか、とげのある器を作ってはいたんだけどね。
IV 高知谷相
良二さんのところを出てからも、ずっと自分の中から鯉江良二を抜き取ることができなかった。空っぽの自分が、良二さんのリズム感だったり、ノリで作っていたというか、それしかできなかったっていうか。自分を見出せてなかった。ようやく自分らしいものが作れたと思えるようになったのは、40歳を過ぎてからかな。その頃、自分と自分の作るものに変化が生まれたというか、良二さんや、ワサンもそうだけど、彼らのように強烈に、拳を上げるような表現ではなくて、何かこう相手を包み込んでしまうような感情を自分が持ち、仕事にもそれを持たせる方がより深いところに行けるという思いが出てきた。どういうことがきっかけだったのか、明確に覚えていないけれど、他者への愛情というか、許容というか、抱擁というか・・・そういう感情が自分の中に生まれてきた時に、自分が作るものも少しずつ変わっていった。それは良二さんの影響から離れて、自分を見出せたターニングポイントでもあるんだけど、そうなってから、自分の中で良二さんとの関係が変わってきたというか、苦しんでいたところから解放された感じがあった。今でも自分の中には暴力性があることは分かってるんですよ。でもそういう怖い内側を治めるというか、昇華するというかできたのは、やっぱりこの仕事を選べたからだと思う。うつわを作ることが、自分自身の感情の深いところに潜り込んでいくための方法というか。
この谷相に来たのは、40歳の時で、それまではアジアに生活の中心をおいていたんだけど、日本に自分たちの場所を作ろうという気持ちになった。この土地は、高知市内のお世話になっている人に探してもらったんです。それから三年がかりで薪窯を作ったんだけど、初めの3年くらいはどれだけ作って焚いても全然うまくいかなくて、もうやめようかと思うくらい悔しくて、悲しいことが続いてね。経験のある友達に教えてもらったりして、ああこういうことなんだってわかってきだしてから、かなり近づいてきた感じありますけど、それでも薪窯はいまだにわからないことだらけなので、本当に予測がつかないというか。あれくらいの大きな窯になると、若い子たちの力を借りながら一緒に作業をしないとできないので、それは彼らにとっても経験を積めると思うんですけど、いつも窯から出すまでは心配です。
若い子たちには、自分のためだけに作るんだったら芸術じゃないよって僕はよく言うんです。社会との関わりをどう生むかというか、自分の外に出した時に何が起きるのかという。今は自分のために作ってるだけでいいかもしれないけど、やっぱりそれを社会に出す以上、何のために表現し、何のために作るのか。そういう仕事の意味を考えて欲しいと思っています。それは僕自身、探し続けてきたものでもあります。芸術と言われるものに触れたときに、ものすごく心が震えた経験があって、そのことによって自分の感情が保たれてるというか、感情に変化が起きた。それは僕にとってものすごく大きなことだったし、他の人にもおそらく必要なことだと思う。そういうことが自分の中に起きて、それをとても大切なことだと思っているので、自分にもできるような気がしたんです。作り出して、誰かに手渡すこと。手渡した誰かの心を動かすことが。
*この記事は2022年3月に行われたインタビューを編集したものです。