Hitoshi Morimoto

森本仁インタビュー

 

森本仁さんを岡山の工房に訪ねた時、そこここに活けられた野の花や、お茶でのもてなしに、彼の美しい暮らしぶりが感じられた。優れた造形感覚、品格と軽やかさで備前焼に新風を吹き込む作家として海外からも注目される森本さんにこれまでのことを伺った。 

子供の頃から絵を描くことが得意だったという森本さんは、高校に入った頃から陶芸家である父の窯焚きを手伝うようになり、将来は自分も陶芸家になることを意識し始めたという。大学は東京の美大に進み、彫刻を学んだが、あまり真面目な学生ではなかったそうだ。大学生活は、寿司屋やイタリアンレストランでのアルバイトをしながら学生生活を楽しんだモラトリアム期間だったという。卒業後は、父の意向で美濃の陶芸家、豊場惺也氏に弟子入りした。

「僕の人生はそこからがスタートなんです。」と森本さんは言う。「それまでの自分は何も考えてなくて、自分で何かを意識してやることがなかったように思います。弟子入りしていなかったら、きっとダメな2代目って感じになっていたと思います。」

弟子入り初日から生活は一変した。仕事は先生の犬の散歩から、掃除、薪割り、庭の手入れ…2年間はろくろに触ることすらできなかった。

「兄弟子たちが先生が使う土を準備したりしているのを見ながら、少しずつ仕事を覚えていくんですけど、僕は何をやってもだめで、怒られてばかり。なぜ怒られているのかすら分かりませんでした。兄弟子たちからも何もわかってないなって言われて。本当に1から、ご飯の食べ方、言葉づかい、掃除の仕方から教わりました。禅僧の修行みたいな感じでしたね。」

器作りに関してはどのように教えられるのかという質問に、

「それは生活を通じて感じさせるというか。生活の全てがものづくりにつながってくるので。でもその時はそれが分からなくて、なんでこんな関係のない仕事ばかりさせられるんだろうと思っていました。」

弟子入りをして3年経っても、自己中心的な考え方を捨てることができず、先生の本意を理解できずにいた森本さんは、これ以上ここにいても見込みがないと家に帰されてしまう。

「悔しかったですね。実家に戻って父の仕事を手伝いながら、毎日悶々としていました。何もものにならなかったというような思いがすごくありました。それから半年くらい経った時に、たまたま先生の展覧会が岡山であったので挨拶に伺いました。先生はそういう僕の状況をすごく分かっていて、まだやる気があるなら戻って来なさいと言ってくださったんです。本当にそれで救われたという思いがあります。」

                                                           
「先生のところに戻った時、自分の中に変化がありました。初めて『自分にはこれしかない、これで生きていくんだ』という強い覚悟が生まれて、同時に自分のことはどうでもいいから先生のためになりたいという気持ちになれました。そうなった時、大袈裟にいうと世界の見え方が変わったんです。よく相手の気持ちになれって言いますけど、その言葉の深さの一端を感じることができました。自分が無くなって、先生が一番の基準になると、相手が今何を考えているとか、次に何をしようとしてるとか、何をして欲しいのかというのが分かるようになる。そうすると今度は先回りして行動できるようになって、物事がすごくスムーズに運ぶようになっていきました。そうやって一年経った頃、再び先生から家に戻りなさいと言われました。でも今度は焼き物屋の生活の一端を感じ取る事ができたので、あとは自分で考えて仕事をしていくしかないと受け取ることができました。それで家に帰って仕事を始めたんですけど、しばらくの間は先生の影響が強過ぎて、父とよく衝突しました。その頃は先生の作品のようなものを作りたいと思っていて、そういうものばかり作っていましたね。もちろん腕がついてないから雰囲気だけのものでした。でも、やっぱりそれでは駄目なんですね。僕自身が備前の焼締で何を表現したいのか、その土でどういうものを作りたいのかということを突き詰めて考えないといけない。そう思い直して、自分自身の作品を意識するようになりました。試行錯誤しながらやっていくうちに少しずつものが見えるようになって、自分のスタイルのようなものができてきたなと思えるようになったのは40歳頃かな。それまでずっとモヤモヤしてたのがスッキリした感じでした。今では先生の作品も相対化して見られるようになり、父のいいところも分かるようになりました。こうして改めて振り返ってみると、自分にとって先生と父親の存在というのがすごく大きいですね。先生から学んだ一番大きなことは、生活が全ての中心だということ。生活が崩れたら絶対にいいものはできないし、こういう生活をしているからこういうものができるということです。それと同時に、生きている以上は社会とつながっていかなければいけないと思っているので、世の中がどうなっているのかもすごい気になりますし、自分も器だけ作っていればいいというのではなく、どういうふうに社会と関わっていくかということをすごく考えます。僕はあまのじゃくなので、備前焼ってこうだよねっていわれるとそのイメージを壊したいという気持ちが、特に最初の頃は強くありました。でも海外ではニュートラルに作品を見てくれる人が多いように思います。世界は広いですし、海外への発信を意識したら、やはり注目してくれる人も増えていく。そういうのって単純に楽しいですよね。根拠のない自信なんですけど、大丈夫、面白いと思ってくれる人は世界中にいるって思いながらやっています。」