赤木明登インタビュー (2022)

うつわを

つくること 

 

森の中に佇む 

樹木と樹液の

語りかけてくる

声なき声に

耳をすますこと

 

生と死とを

繋いでいるものに 

眼差しを

向けること

 

掌の中で

形なきものに

形を与えること

 

そして

それらに

祈ること

 

これは赤木さんが、銀座和光の個展に寄せた言葉です。ここに語られていることは、赤木さんの核心に繋がることだと思い、お話を伺いました。

 

赤木

こういう感覚って、つい最近まで保たれていたと思うんですけど、それが急速に失われているのが今の時代で、そこを工藝の原点に戻したいなというか、僕は戻りたいなと思っているんです。例えば、今は死について考えたことがないという人も多いし、宗教的なことを話題にするだけで、拒絶されてしまう風潮ですよね。この世界は僕らが経験しているこの世界だけだし、それでいいじゃないかって。でも、そういう本質的な問題について考えずに、この現象している世界が全てだという風に多くの人が思ってしまっているところが、民藝や工藝における宗教性みたいなものが失われてたり、議論すらされなくなっていったりしていることの、ある意味根本的な原因だと思うんですよね。

 

ーそうですね。柳宗悦の民藝も、宗教性が根底にあると思いますが、今は、そういう側面から語られることは少ない気がします。

 

赤木

柳が宗教的真理と民藝をつなげて考えていた点に関しては、僕はカント的な考えなので、真理とか神秘それ自体について語るべきではないのではないかなという考えなんです。あくまでも、こちら側から神秘を見るべきだと。神秘っていうと、多くの人はオカルトみたいに思うんですけど、そうではないということを、僕は経験的に気がついたんですね。何十年も同じ森の中を歩いていると、森の風景が波のように見えるという話を前もしましたが、土の中から芽が出てきて、膨らんで光を求めて上にどんどん伸びていって、夏の終わりには水分を失って枯れて萎んで、葉を落として、木が倒れて腐って土で戻っていくっていうのを繰り返している。それが僕には全く波と同じように見えて。何かが現象しているんだけど、その背後にはそれを生み出す何かがあって、僕はそれに触れるギリギリのところにいる感じがするんです。きっと縄文人も森の中で生きていて、森の波動というか、膨らんで縮んで消えてを繰り返してるものの中に自分自身もいるということを、ちゃんと自覚していたと思うんですよ。それを造形化したのが僕は縄文土器だと思うんです。縄文土器の造形って、縄目文様や、蛇や水など、いろいろなモチーフがありますけど、僕にはそれが森の純粋直感に思えるんですよね。さっき言った波のように膨らんで縮んで消えるという。だから縄文土器は火炎のように上に盛り上がってるけど、あれは植物が成長して膨らんでいくことを造形化したものじゃないかなと思っています。作った土器はその年の秋にみんな山のてっぺんに持って行って、あの世に送るんですね。そして次の年の土器をまた作るんです。それは、その循環の中に人間も土器も全ていたという事だと思うんです。それが多分人間の意識の根源にあって、その根源的なものがおそらく日本の文化の基層にあるんですよね。

漆というものに接して、30年ほどですけど、漆のことが余計に分からなくなるんです。僕が漆について分かっていることは、ほんの表面だけで、その向こう側に得体の知れない漆世界があると感じるんです。僕は、それが神秘だと思うんです。言語化はできないけれど、そこに何かが横たわってるわけですね。その横たわっているものを、言葉にできるところは言葉にした上で、その向こう側は言語化できないというギリギリのところまで行くのが、工藝の仕事だと思っています。だから宗教性という言葉がいいのか分からないけど...神秘かな。あと、そこに対する愛だと思うんですよ。言葉にもできないし、得体も知れないけれど、とてつもなく魅力的なものがあって、そこに目を凝らして、そこから何かを持ってきたいという。漆には、漆という素材にとってなりたい方向があるんです。こうなりたいっていう。それは漆という存在自体の完璧さなんだと思いますけど、その完璧さを邪魔しないように引き出すっていうことに集中するということですね。

カントによると、神も、浄土も、そしてぼくが森の背後に感じているものも、漆の生命力も、人間の脳が想像力で生み出したものにすぎません。それがほんとうに在るとか、無いとかは、断定することは、誰にもできない。でも、そういうものが在るんだと想定して、いまぼくたちがいる世界を生きた方が、精神性の深い、より倫理的な生き方ができるんじゃないかと思っています。どちらにしろ、ぼくたちはこの世界の中では解決できない問題を、たくさん抱えていますから。ぼくにとって工藝は、そういう問題の解決法の一つなんです。

 

ー赤木さんの黒の漆は、同じ黒でも、白い黒を目指していると仰いますよね。言葉では矛盾しているように聞こえるけど、見ていると確かに黒の中に白が感じられます。あれも、漆のなりたい姿ということですか。

 

どうして白い黒に見えるのかっていうのは最近言語化できるようになったんですけど、それは漆樹液の分子が大きいからなんです。漆樹液って出てきた状態だと、結晶した分子が大きいのと小さいのが入り混じったような状態なんですけど、加工する時にそれを撹拌してすりつぶして粒子を細かくして粒の大きさを均一に揃えていくんです。そうすると、分子の大きさが均一になって艶を生むんですね。でも僕の場合は、クロメと言って、漆の樹液を加工して上塗り漆を作る作業を自分たちでやっているんですけど、木の道具で漆を回す時に、できるだけ摩擦係数が少なくなるように気をつけます。そうすることによって、分子をなるべく壊さずにそのまま上塗り用の漆に移し替えることができるんです。そうすると分子の大きさがランダムな状態なので、乱反射が起きて黒が白く見えるんです。強度もそっちの方が高い。僕はそれが漆という素材の本来の姿じゃないかなと思っているんですけど、そういうことを言葉にすることができるようになって、僕にとって世界は少し拡張したんですけど、でもまだまだその先に広大な言葉にできない漆の世界が広がっているんです。

 

ー赤木さんは以前、古来、日本人にとって自然というのは、生命力が来る源の場所であったり、死者が帰っていったりするような抽象的で超越的なもので、そういう超越的なものと向き合うということが工藝の原点だと話されていました。その神秘としての自然は、目には見えないし、言葉で語ることもできないけれど、森の植物の姿を通して波として感じることができたり、あるいは、クロメの話のように、技術や経験によって、こちら側の経験界に、引き出すことができると。そういう神秘を内包した自然に接しながら、その声なき声に耳をすませたり、目を凝らしながらする仕事が工藝の原点だということですね。

 

赤木

そうですね。だから工藝の本質は信仰だと思うんです。神秘への愛というか。ヤスパースに「哲学的信仰」という著作があるんですね。哲学という論理的な学問と信仰するということは矛盾しているように思えますけど、でも哲学的な信仰は僕はあり得ると思うんです。同じように、神秘というものの存在については語れないけれど、それに接することはできるとしたら、工藝的信仰っていうのがあり得るんじゃないかなと思っていて。例えば、宗教の修行者が自分の魂というか心を見つめ続けるように、工藝家として、僕らは素材を見つめ続けることによって、それを単なるものを作ったり、消費をするための対象ではなくて、神秘の対象として見つめ続けるっていうことが、僕にとっての民藝の核心だと思っていますし、素材の持っている巨大な神秘性の中に人間の魂を救い出す何かがあるような気がするんですよ。だから、工藝が工業製品とかプロダクトデザインとどこが違うかっていうと、心の問題だと思うんです。僕は、工藝は人間の魂を救うものであると思っているので、そういうものを作っていきたいですね。

この記事は2022年6月に行われたインタビューを編集したものです。

赤木工房のクロメの風景


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