Taro Yoshita

𠮷田太郎インタビュー

𠮷田太郎さんの実家は九谷焼の絵付けで110年続く錦山窯。祖父は人間国宝、父母も九谷焼の作家という家に生まれた。

「高校二年生の時、先生から『お前はお爺さんのおかげでこの高校に入れたんだぞ』って言われたことがあって、心の中に爆弾を落とされたようなショックを受けました。高校入試は僕にとって初めて自分でいきたい方向を決めて、努力して勝ち取ったものでした。でも先生にそう言われた時、結局どれだけ努力しても、人は僕ではなくて、僕の家を見ているんだなと思ったんです。」

傷ついた𠮷田さんは、それから自分の意思表示をすることができなくなってしまった。卒業後京都の大学で芸術を専攻したが、それも自分の意思ではなく両親の勧めがあったからだという。全てがどうでもいいという半ば投げやりな姿勢になっていた𠮷田さんを変えたのは、大学時代のいくつかの出会いだった。𠮷田さんが人生のターニングポイントと語るのが、同級生で現在は陶芸家の小野鯛さんとの出会い。そのころの𠮷田さんと違い、自分の意見をしっかり持ち、それをはっきりと述べる鯛さんに強烈な印象を受けた。鯛さんと一緒に大学生活を送るうちに、自分から何かしてみたいという気持ちを徐々に取り戻していったという。そしてもう一つの大きな出来事は鯛さんの父親である陶芸家の小野哲平さんとの出会いだった。

「哲平さんに会ったのは、鯛に誘われて窯焚きの手伝いに行ったのが最初です。薪窯を見るのはその時が初めてでしたが、家の工房の電気釜とは全然違って、圧倒されるような迫力がありました。その時に哲平さんから、『何のために作っているのか?何を伝えたいのか?』というシンプルで、大きな問いを投げかけられました。でも僕はその問いに対して全然答えられなくて。それで自分の不甲斐なさを思い知らされたというか、変わらないといけないと強く思いました。その哲平さんの問いはずっと心の中にある感じです。」

様々な経験をしたことで変わっていった𠮷田さんは大学卒業後、家業を手伝いながら、自分の仕事として土ものの陶芸を続けていくことを決心した。九谷焼の研修所で学んだ後、実家の錦山窯に入社し、祖父の釉裏金彩を学んだ。日中は家業を手伝い、夜は工房に篭って自分の作品のためにろくろをひいたり、釉薬のテストをしたりする生活が続いた。大学時代に九谷焼の絵付けとは異なる釉薬の魅力に惹かれた𠮷田さんにとって、釉薬の表現は特に大事にしているものだが、釉薬の表情だけでなく、触った時の質感でも伝えたいと語る。𠮷田さんの表現を代表する湧き上がる雲を閉じ込めたようなモスグレイの釉薬や、人肌を感じさせるようなしっとりと滑らかな白の釉薬は、自分の心に適う表情と質感を求めて2000種類以上の釉薬テストを繰り返した末に出会ったものだという。

改めて何のために作っているのか尋ねた。

「高校の時にできた心の穴は長い間埋まらなくてしんどかったですけど、器を作ることでその穴が満たされていった感覚があります。心の穴って、体の傷と違って自然治癒はしなくて、人の優しさだったり、美しい夕日や月、いい映画や音楽とか、そういうものに触れることによって、少しづつ埋まっていくイメージがあります。毎日の食卓にある器も、心の穴を埋めることができると思っています。誰にだって人には言えない心の傷があると思うんですけど、そういった心の隙間を満たすことができればと思いながら作っています。」

大学を出てから7年。錦山窯の仕事を手伝いながら、自分の作品作りを深めてきた。結婚、子供の誕生といった大きな出来事を経た今、感じていることを聞いた。

「以前は嫌だった家のことも、今は向き合えるようになりました。錦山窯の仕事は研ぎ澄まされた技術を突き詰めていく仕事で、僕が個人としてやっている仕事とは両極端ですけど、それを両方見られるのは視野が広がる良い環境だと思っています。結婚して子供が生まれたことも大きいですね。子供を見ていると、自分が小さい頃に両親の優しさに守られて感じていた安心感を思い出します。心が満たされているようなあの感覚を反映させた作品を作れたらと思ってます。」

故郷の海を眺めたり、灰色の雲の隙間に青空を見つけたりするのが好きだと話す𠮷田さん。好きな自然の風景がいつしか心の風景となり、自身の釉薬の表現にも繋がっているのかもしれないという。今回話を伺いながら、モスグレイの釉薬の表情に、苦しみを乗り越えてきた彼の強さと深みを感じ、白の釉薬に彼が求める安らぎを感じた。

 

*この記事は2024年6月に行われたインタビューを編集したものです。