北山栄太 インタビュー

 

ザクロの実などの植物による草木染めや鉄媒染によるシックな色合い、繊細な美的感覚に裏打ちされたシンプルかつエレガントなフォルム。ガラスコーティングで仕上げ高い実用性が結びついた木の器を作る北山栄太さん。初めて工房を訪ねた時、仕事の手を止めて、木屑まみれの笑顔で工房に迎え入れてくれた。

北山さんは自然豊かな城下町、丹波篠山生まれ。実家は鉄工所で、江戸時代までは刀を作っていたそうだ。幼い頃遊んでくれた祖父は、竹とんぼや竹馬、釣竿など、なんでも作ってくれる器用な人で、北山さんも自然ともの作りが好きになった。

大阪の服飾専門学校で縫製を学んだ後、しばらく地元の住宅会社や実家の鉄工所で働いていたが、一度東京に出てみたいという気持ちが高まり上京し、什器を手掛ける会社で働いた。休日は好きなフランスアンティークのお店巡り。ある時、仕事場で出る木の端材を使ってアンティーク風の小箱を作り始めた。やがて人から勧められて手作り市に出品するようになった。親しくなったキャンドル作家と吉祥寺で二人展を開催してからは、物づくりをする人たちとの繋がりが一気に広がり、展示什器を作ってほしいと頼まれることが多くなる。作家の世界に触れた東京生活だったが、その頃は自分が作家になることは考えていなかったという。その後、丹波篠山に戻り、内装の仕事をする傍ら、セレクトショップを始めた北山さんだったが、店のテーブルの脚を自分で作りたいと木工旋盤を手に入れたことで、作家への道が開かれた。

「一年くらい試行錯誤して旋盤で脚が作れるようになって、その頃作っていたものをブログに載せたところ、ある作家の方から連絡が来て、自分の個展にゲストとして作品を出してみないかと誘われたんです。原宿のギャラリーで行われたその方の展示にコンポートを出品して、初めて作家として自分の名前が出ました。それがきっかけで作家として生きていくことを決めました。」

それまでしていた仕事を全て辞め、食事も忘れて旋盤技術を磨くことに没頭したその半年間を、これまでの人生で一番濃密な期間だったと話す。好きで使っていたフランスのアンティークのカトラリーを木でできないかと作り始めたが、最初はすぐに折れてしまい、失敗続きだったというが、技術の研鑽と材の研究を続けることで、少しずつ強度と美しさを両立したものができるようになっていった。

「その頃自分にしかできないものってなんだろうと考えていて、染めに出会ったんです。鉄媒染をやっている人の作品を初めて見た時に、鉄媒染で色付けできるなら、草木染めもできるんじゃないかと思って。それで、実家の裏山に登って取ってきたいろんな植物を使って染める研究を始めました。ある時、ふと思いついて祖父が大事に育てていた椿の花で試してみたんです。そしたらすごい綺麗な色になって。自分がやるべきことはこれだと確信しました。」

それからしばらくして完成したカトラリー、それに7寸と9寸の皿は、ザクロなどの植物による染めの美しさと古典的なフォルムの美しさが調和した、これまで見たことのないものだった。その仕上がりに達成感を覚えた一方で、北山さんの頭の中にはもっとシンプルな皿のイメージが頭にあったという。この上なくシンプルで美しい皿。そのイメージははっきりと頭の中にあったが、当時の技術では作ることができなかった。

「本当にちょっとした角度のことなんですよね。でも何回やっても納得いくものができなくて。結局これだと思えるものができるまで4年かかりました。」

ようやくその皿が完成した時、北山さんは自分の作品に初めて名前をつけた。「la norme 」フランス語で標準、スタンダードを意味するその皿は、とてもシンプルでありながら、確かな存在感を感じさせる、北山さんが追い求めた美しさの一つの到達点だ。

2年ほど前、宮城に移住してからは、木がより身近なものになったと語る北山さん。日の出前車で海に行き、サーフィンを楽しんでから仕事をするのが日課だという。海にいると頭の中がクリーンになって、色々なアイディアが浮かんでくるそうだ。自然に身を委ね、いい波がきた時にその波に乗るサーフィンは、北山さんのこれまでの歩みとどこか重なって感じられる。最後に、これからやってみたいことを聞いてみた。

「染めを極めたいですね。そのために染める植物も全部自分の手で育てたいと思っています。祖父が植えた椿も今挿木をして、こちらで育てています。染めって無限大の可能性があるので、またこれだって言える色に出会いたいです。」

 


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