子供の頃の赤木さんは、人と合わせるということがどういうことなのか理解できなかったという。世界との違和感と抱え、箱庭を作って遊ぶ少年はやがて詩や小説に熱中する文学青年になった。
「宮沢賢治や中原中也といった人達の詩が好きで、高校の時には自分で詩集を作っていました。その頃は詩人になろうと思って、現代詩の雑誌に投稿していたんですけど、きっと支離滅裂だったんでしょう、拾われることはありませんでした。」
大学では哲学を専攻。 ハイデッガーの研究で知られる木田元氏に学んだ。大学を卒業後、家庭画報の編集者に。好きな茶の湯や器に関係するページの担当ではなかったが、仕事は面白かった。休日はギャラリーや器屋まわり。そして、現代陶芸を中心に紹介していた新宿のギャラリーに勤めており、後年家庭を共に築くことになる智子さんと出会う。刺激的で、多忙を極める毎日だったが、いつしか満たされないものを感じ始めたという。
「当時の編集の仕事って自分で企画を立てて、会いたい人に会って、自分で文章を書けたんです。とても面白かったんですけど、ある時ふと自分をつまらなく感じたんです。例えば映画監督の大島渚さんにインタビューに行って、文章を書くじゃないですか。大島さんはすごく面白いのに、自分の文章を読むと面白くないって思ったんですね。それはなぜかと考えると僕自身が面白くない人間だったからなんです。大島さんはずっと映画を撮り続けてきて、いろんな問題と闘いながら築き上げてきた何かがあるんですね。僕が大島さんのことを書いても面白くならないのは、書いている僕の中にその何かが無かったからなんです。それで、その何かが欲しいと思ったんです。しっかり芯になるようなものが。それを手に入れるためには、このまま人のことを取材してものを書いててても駄目だと思って、自分の中に何かを溜めるためには何をしようかと考えたときに手で物を作ることがいいんじゃないかと思ったんです。」
たまたま見に行った日本橋高島屋のギャラリーでの角偉三郎さんの作品展が赤木さんの人生を変えた。その時の衝撃を赤木さんは「一つ一つの器が生きているようで、まるで人格を持って語りかけてくるように感じた。」と話す。それから2年後、角さんを訪ねて輪島に行き、一緒にお酒を飲んでいるうちに塗師になることを決心したという。「よくあんなに漆について何も知らないまま輪島塗の世界に飛び込んだなって自分でも呆れます。」と赤木さんは笑う。
「でも自分の人生を変えてしまうような出会いは、きっと全ての人の人生にあると思うんですよね。それに気付かず通り過ぎてしまう人もたくさんいると思うんですけど、僕はそれに気づくことができた」
智子さんに、赤木さんから職人になると告げれれた時はどう思いましたかと聞いてみた。
「私の方がそういう世界に近かったし、驚きはしなかったな。やれるものならやってみなさいよ、そんな簡単なことじゃないよっていう気持ちだったけど、お互い仕事が忙しくて、日々の暮らしみたいなものもなかったので会社を離れることには賛成でした。」
一年後赤木さんは退社し、家族を連れて輪島へ移住し、わずかなつてを頼りに輪島塗の下地塗り職人、岡本進氏に弟子入りした。27歳の頃だ。著書「塗師物語」(文藝春秋 現在は絶版)には当時の濃密な数年間が綴られている。
修行期間に得た一番大きなのものは何か聞いた。
「結局、自分のやり方を見つけたことだと思います。弟子入りの間は親方の言う通りやるんだけれど、親方は何も教えないんです。だから最初は本当に混沌としていて何も分からなかった。弟子入りするとまず刃物を作らされるんですけど、刃物も出来上がったものではなくて、鋼の板を渡されて、それにグラインダーをかけて刃の形にして、それに柄をつけて自分で刃物を作るんです。なぜ自分で作るかと言うと刃物というのは自分の身体の延長線上にあるものなので、自分に合ったものを自分で作るんです。できたらその刃物を使って、今度は漆を塗るためのヘラとかハケとかいう道具を作っていく。その刃物の形は職人さん一人一人全部違うんです。みんな違うから、正解が無い。漆を浸透させる工程も職人さんによって全部違います。一人一人の職人さんがそれぞれ自分の考えがあって、この工程はこうやるのが一番いいというのがあるんです。弟子修行とはそれを見つけることなんだと思います。でも大学の漆芸を出てきた子は人間国宝みたいな人から正しいやり方を教わるでしょう。例えばこの工程はこういう道具を作って、こういうふうに塗りなさいと教わる。それで、みんなそれが正しいと思い込んでいるんだけど、それは違うんですよね。生きている技術というのは正しいやり方じゃなくって、自分のやり方を見つけていくうちに得られるものなんです。それが分かったのが弟子入り時代の一番の成果かな。だから何も教わってないし、うちでも何も教えない。何も教えないけど全て教える。そういう技術の伝承の仕方が徒弟制度の中にはあって、僕はそれが職人になる一番いいやり方だと思っているけれど、今は技術の伝承が学校制度の中に取り込まれることによって、もう伝えられないものがものすごくあるなと思うんですね。それを理解してもらうのがなかなか難しい。」
4年間の修行期間と1年間の御礼奉公を経て、独立して最初の展覧会をしたのは1994年。32歳だった。
独立した時は、どういうものを作りたいと思っていましたか。
「自分たちの暮らしの中で必要なものを作りたいと思いました。というのは職人修行をしていた時に、輪島塗のもので自分達が使いたいと思うものが無かったからなんです。その頃の輪島塗って豪華で、扱いに気を遣う、特別な日のためのものでした。でも本来漆器産地は、明治、昭和の中くらいまではそういったハレの日のお椀だけでなく、普段使うための漆のお椀もずっと作っていたんです。それが近代化されて、普段使いのものは工業製品に取って代わられ、ハレの日のうつわだけが残っていったわけですけど、僕はその普段使いのお椀をもう一回蘇らせたいと思ったんです。」
最初に作ったお椀「能登紙衣飯椀」は現在も定番として作られているお椀だが、これは弟子時代、能登の山村の廃屋で拾った江戸時代後期のお椀を写して作ったものだ。以来、赤木さんは自分で新たに形を生み出すのではなく、自分が出会った古い時代のお椀を写してうつわを作ってきた。「写し」とは、古いものをそのままコピーして作ることではなく、一つの形を型として探究することなのだと赤木さんは言う。「お椀って真横から見ると左右対称の線でできていますよね。その線を紙一枚分ほど動かしていくと、そのお椀のイメージや形はどんどん変わっていく。写しとは同じ形の中にある無限の線の中から、一番美しいと感じる線をどこまでも追い求めていく作業なんです。」このお椀が持つ木綿のようなさらりとした風合いの仕上げは「紙衣(かみこ)」と呼ばれ、和紙を貼ってから漆を浸透させることにより生み出されている。光沢のあるうつわが一般的な塗の世界に、柔らかさと温かみを感じさせる和紙のテクスチャーを持ちこみ、多くの人に受け入れられた。
「最初の10年くらいは和紙貼りのテクスチャーのあるお椀ばかり作っていました。でもだんだんそういう表現の中に自意識みたいなものが感じられるようになってきて、自分を消したいと思う気持ちが強くなっていったんです。それで、テクスチャーのあるお椀をだんだん減らして、テクスチャーがあるものもなるべく抑えたものにしていった。同時に『塗立』という、つるんとした漆を塗っただけのものの比率を上げていったんです。テクスチャーという古色の付いたものが、表現とか方法論として悪いわけではないと思うんですけど、僕が最初の頃やっていたのは、技術の拙さもあってのテクスチャーだったと思うようになって、次第に漆という素材自体が持っている一番魅力的なところをきちんと表現したいと考えるようになりました。テクスチャーからマチエールに関心が移っていったということですね。マチエールというのは素材感みたいな、僕がいいなと思う漆の表情ですけど、それを引き出すには技術が必要で、漆という素材に対して攻めていかないとできないんです。それを長いことやっていくうちに、だんだん言語化された世界の向こう側にあった漆の持っている可能性が、混沌とした中から出てくる感じがありました。そういった非言語的自然の中のポテンシーを理念として引き出すことが、僕はある意味アートだと思うし、人間の魂を救うことができるんじゃないかなと思うようになりました。」
独立して27年、赤木さんは工藝とは何かという問題について考え続けてきた。
「古来、日本人にとって自然というのは、生命力が来る源の場所であったり、死者が帰っていく場所であったり、お盆になったらそこから死者がやってきたりするような抽象的で超越的なものでした。そういう超越的なものと向き合うということが工藝の原点というか、工藝を工藝たらしめているものだと僕は思います。それは16,500年前に縄文土器が作られた時から今までずっと変わらないんです。近代化される以前、人間の作り出す道具というのはみんな超越性と繋がっていて、そこに魅力を感じたのが民藝だと思うんです。柳宗悦はそこへ至るために作り手に無心を求めたわけですけど、近代化された自我を持った我々には不可能なわけですよね。でも僕は超越性に至る方法は今でもあると思っていて、それは自分の個別性を探求していくことの中にあると思うんですよね。例えば、漆には黒と赤しかない訳ですけど、黒の中にも白い黒や赤い黒や青い黒とか色々な黒があるんです。僕は白い黒を目指していて、その白い黒の中のこの艶で、この色でっていうふうに極まっていく。それが数をこなしていくことの意味だと思うんですけど、自分の個性とか個人的な好みをどんどん追求していくとその果てに個別性を超えたような世界に行き当たるんです。そこは意識と無意識を超えた、個と普遍性を超えたような場所です。いきなり無心にはなれないけど、自分の好みとか個性を探究しつつ、それを実現するために必要なテクニックを身につけて、さらにその先に進んでいくことによって、超越性を取り戻せるいうのが僕の考えです。」
「工藝とは何か」という問いに超越性の問題を語る赤木さんのような人は、現代では少数派なのかもしれない。それほどまでに超越性は追いやられてしまっているということなのだろう。カントに学び、語りえないものを語る独断的形而上学に陥ることを自ら戒めながら、それでもなお、言語を超えた領域があるということを、赤木さんは森を歩きながら、漆と向き合いながら日々感じている。後に続く工人達のために何ができるのか。無名の職人達によって作られた日常使いの雑器の中に美を見出した柳宗悦は、美に至る道として他力や無心を説いたが、赤木さんは超越性を工藝に取り戻すためのもう一つの道を指し示そうとしている。それは素材と向き合い、個人的な好みをその極みまで探究していくということだという。その果てにある非言語的な世界に辿り着いた時、言語による錯誤によってつくり出された自我が消え去り、素材に秘められた美が十全に引き出される。それが工藝と超越性の結びつきを取り戻す道だと赤木さんは今考えている。
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