-今回の個展は「最後のへぎ」をテーマとしたいと仰いました。へぎとはどういうものなのか、なぜ「最後」なのかお聞かせください。
板の作り方にはへぎ板と挽き板の2種類あるんですけど、今はほとんどが挽き板です。挽き板というのは、山から下ろしてきた丸太を大きなノコギリや機械で真っ直ぐに挽いて板にしたもので、電動化されてから大量に作られるようになったんですね。でも丸太の中の繊維って、真っ直ぐに通っているわけではなくて、うねっているので、挽くと繊維が途切れ途切れになるんです。へぎ板というのは元々の板の作り方です。丸太をある程度の長さ、日本だと一間(いっけん)、182センチに切ったものを、上から楔を入れて、繊維に沿って割っていって、そのいい部分だけカンナをかけて板にするっていうのが日本の伝統的な板の作り方なんですね。へぎで作ると木の繊維が中を通っているので、強度があるのはもちろんだし、同時に木としての生命力を残しているんです。輪島塗の指物と曲物というのは基本的にはへぎ板でないと作れなかったし、特に曲物は今でもへぎでないと作れないんですね。指物は近代化してまず挽き板に代わり、それから合板に代わっていった。合板というのは、表面は綺麗でも中はベニヤ板です。ベニヤ板というのは材木を桂剥きにして真っ直ぐ平らに伸ばして貼り合わせて作ったもので、僕は死んでる材料だと思っていて使わないんです。へぎ板といったら、角偉三郎さんがへぎのものをよく作ってたんですけど、あれは曲物屋さんの軒先で乾燥させたへぎ板を見つけて、その生命力に惹かれたんですね。角さんは、へぎで荒々しい生命力みたいなものを表現していたと思うんですけど、僕はできるだけ静かに、あまり手を加えずにへぎそのものの表情を見せる。木地の中で行われてきた手仕事とか技術をね。それだけの方がいいかなと。余計なものは加えないようにしています。
へぎは輪島以外にもあって、木曽にはヒノキのへぎがあるし、秋田には杉のへぎがあります。輪島はアテの木、つまりヒノキアスナロで、これは輪島にしかなかったんですね。去年、輪島で最後のへぎ師だったおじいちゃんが亡くなりました。へぎ師というのはへぎだけを作る人ですけど、へぎ師にとって作るよりも重要なのはその木を見る目なんです。へぎ師は山の中でへぎになるいい木を選んで、その木だけを買って、山から出してきて、へぎを作るまで一貫してやるんですけど、そのおじいちゃんは最後のへぎ師でした。弁当箱などの曲物はお湯で温めて板を曲げて作るんですけど、繊維が通ってないと割れてしまうんですね。挽き板だと割れてしまうので、へぎ板じゃないと作れません。曲物屋さんが一軒だけ残っていて、その曲物屋さんが今は自分でへぎを作っています。今回出展するものの一部はその曲物屋さんがへいだ板も使っていますけど、へぎ師のおじいちゃんのへぎ板は今回の個展で最後になります。
今、漆の世界は、どこも後継者がいないという状態です。へぎ師だけじゃなくて、漆掻きの職人さんもそう。漆自体、現在日本で使われてる98% が中国産なんですけど、その中国産の漆も3 年ぐらい前から質がすごく落ちてきています。漆を掻く仕事はすごく過酷な労働なので、多分中国の農村部も近代化が進んで、低賃金で働く人がいなくなり、クオリティが下がってきているんだと思う。そういった材料もそうだし、職人さんがいなくなることで、この先作れるものの幅がどんどん減っていくなと思っています。一人の職人さんがいなくなることによって、手足をもがれるように作れるものが減っていく。この後無くなるのは横木。横木で挽いたお椀だと思いますね。あと朱の顔料なども無くなるでしょう。それから、黒の漆は、今ではほとんどが酸化鉄の黒なんですけど、僕の場合、黒は中世と同じ松煙(しょうえん)を使っています。その松煙を作っている人も三重県の鈴鹿の山の中でやっているおじいちゃんだけなので、その人がいなくなったら松煙も終わるし、今、日本は急速に滅んでいますね。輪島塗は500年続いていて、漆藝自体は縄文時代から 1万年続いてきたんですけど、それが今滅びようとしている。でも最近思うようになったのは、それを嘆き悲しむのではなくて、それが続いてきた最後の1番いいところを、夕陽を眺めるように味わうということが、ある意味幸福なことだと思って仕事をしようと気持ちを切り替えたんですよ。だからへぎも本当にこれで最後なんですけど、最後に残った一番いいところを使わせてもらうというのは、幸せなことだなと思います。