秀衡椀について

秀衡椀について

秀衡椀について 
文:赤木明登
秀衡椀は、謎の多い古椀である。というのは、誰が? いつ? どこで? なんのために? つくったものなのかが、よくわかっていないから。では、わかっていることは何か? 
葛西氏系の氏族の子孫、各家に同じ図柄の椀が20組ずつ伝世していること。家ごとに、菊枝、若松、沢瀉、烏瓜、蕪、桃、田鶴など、描かれている紋様が異なっていること。葛西氏は、もとは関東の源氏系氏族で、平安末期に源頼朝が奥州藤原家を滅ぼしたあと、平泉を中心とした北上川流域を、支配することとなった。この地で大名家として桃山時代まで400年ほどつづくが、豊臣秀吉によって滅ぼされた。椀の制作年代は、桃山時代から江戸初期ではないかと推定されている。江戸時代後期に、数寄者によって見出されて、茶懐石の組椀として好まれた。「秀衡椀」という名は、そのころにつけられたもので「奥州ふうの」といった意味合いで、実在の奥州藤原氏三代目の藤原秀衡とは数百年の隔たりがあり、無関係だと思われる。また、昭和の初め、柳宗悦らによって民藝の名品として再び取りあげられた。
木地の樹種は、緻密な柾目欅材の横木取り。サイズは大ぶりで、中世的な雰囲気を残している。いずれも、三つの椀が入子に組まれている。内側から膨らんだような丸みのある器形には、京風の優雅ささえ感じさせる。同時に大きくやや高めの高台には、武家風の豪胆さをも感じさせる。雅と豪胆に加えて、東北の素朴な感じがない交ぜになっているのが、この椀の不思議な魅力と言える。
椀に描かれた紋様は、さらに謎めいている。全体の雰囲気は当時の武家階級にすでに浸透していた、上手の蒔絵に対して、やや下手に感じられる(そこが柳に好まれた所以であろう)。椀の口縁に近い上部には、源氏雲、その上に箔押しによって、連続四角紋、割菱紋、十字紋などが描かれる。源氏雲の下部には、家ごとに異なる上述の植物文様が描かれている。一つの椀の中に、抽象紋様と具象紋様が同時に描かれているのも、どこか神秘性を感じさせる。この紋様が何を意味しているのかも、いまのところ全く不明である。
ここからは、実作者としての想像である。源氏雲は、同時代に描かれた「洛中洛外図」と同様に、空間を構成するためのものとして理解されているようだが、そこには何か象徴的な意味が込められているのではないか。ここに描かれている雲紋様は「天叢雲(あまのむらくも)」ではないか。そこに潜んでいるのは、もちろん「大蛇」「竜蛇」である。さて、神社などで、蛇が御神体とされているところが多くあるが、それは多くの場合隠蔽されている。蛇は、強い霊力を持つとともに、忌み嫌われる存在でもあるからだ。そこで行われるのが抽象化である。抽象化されたシンボルは、一見しただけでは蛇であることはわからない。具体的には、蛇の鱗は連続する三角紋様、四角紋様で、蛇の頭部は、割菱紋様、十字紋などで表現されている。秀衡椀の金箔で描かれている紋様は、ズバリこれではないだろうか。つまり、天叢雲の中をうごめく竜蛇が、地上に向けてその頭部を垂れているのである。雷のことを「稲妻」という。天から雷が地上に落ちて、稲の妻(古代においては男女ともに「つま」である)となり、米が実るのである。つまり、竜蛇は天と地を繋ぐもの、そして天の霊力を地上にもたらすものの象徴である。その力を受け取るのは、もちろんこの地上に生成したありとあらゆる生き物である。具象的な植物文様は、各家を代表する霊力の受信装置である。このようにして秀衡椀には、「天」と「地」言いかえれば「浄土」と「現世」が描かれている。
その紋様をつくりだしたのは、奥州藤原文化の礎となった「浄土思想」ではないか。浄土思想は、中世日本で独自に発達した仏教思想である。死者となり浄土に旅立った者が、あの世で修業を積んで悟りを開く。そして菩薩なり、阿弥陀なりに化身して、再びこの世に現れて、現世を生きる衆生を救うのだ。現存する中尊寺、毛越寺とともに、桃山にはまだ浄土思想がこの地には息づいていたのではないか。それを背景につくられた秀衡椀に描かれた竜蛇は、かつて栄えた葛西氏の先祖神である。一族がまさに滅びようとする乱世にあって、家の繁栄と再興の祈りを込めてつくられた椀なのではないだろうか。
Hidehira bowl

These beautiful nested bowls are named after some mysterious old bowls made in 16th century. This is the fist occasion to be...